どもっ!
本日は8月15日、終戦記念日です。
今年は終戦70周年を迎え、映画「日本のいちばん長い日」公開など、あのころの大戦を振り返る企画が映画やテレビ、ラジオなどで盛んに行われてますよね。
中には新事実が発見!なんて話も。
埼玉県の飛行場
そんな中、あまり知られていない話として、ここ地元の飛行場の話があります。
子供のころから地元に住んでる人は知っている人が多いと思いますが、大人になってからこちらに引っ越してきた人はあまり知らない事に、坂戸市と日高市には第二次大戦中に陸軍の飛行場が存在してました。
今では坂戸市の飛行場跡は若葉駅前の富士見工業団地、日高市の飛行場跡には旭ヶ丘地区となり飛行場跡を微塵と感じさせない風景が広がっていますが大戦当時にはいろいろなドラマがあったことが当時の資料からうかがい知れます。
(それぞれの話は地元図書館などに資料が残っています。)
陸軍坂戸飛行場
陸軍坂戸飛行場は、主要設備として格納庫、掩体用のバンカーなどが装備され、滑走路は草地の平坦路となっており、主に訓練基地として役割を担っていました。開場当初の1941年は九三式中間練習機などが飛んでましたが、終戦間際にはその練習機すら少なくなり戦略的価値を失っていくことになります。しかし、B29の空襲が本格化すると迎撃に上がった「雷電」が飛来したり、小規模ながら空襲を受けたりと終戦の日までその飛行場として機能していました。
陸軍高萩飛行場
陸軍高萩飛行場は坂戸飛行場と距離的には大変近いものの入間の陸軍航空士官学校の分教場として開場しており、その設備も、本部舎、兵舎、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物など設備も坂戸飛行場と比べて充実しており、天皇が幸行で訪れたり(そのため入間、高萩間の道は舗装されていたそうです。)とかなり重要視されていました。終戦の日、高萩飛行場は厚木基地の小数の徹底抗戦派が埼玉方面の各基地に退避する際の一つにもなりました。
士官学校という面もあったせいか各地で戦闘を行っていた第12飛行団が終戦まで残り、記録では温存されていた航空機として数ある中に疾風が92機も、そして特攻兵器である剣が3機、終戦を迎えており歴史的にも重要な役割をもっていました。
そして、終戦時の興味深いエピソードとして疎開して製作が進められた57ミリ砲を積んだキ93の2号機が存在していたなんて話がありました。
キ93は陸軍が開発していた襲撃機でホ402・57ミリ砲なんて対戦車砲を積む双発機で6枚プロペラ装備のなかなかの重装備の機体でした。戦争末期には本来の対戦車戦の用途でなく対爆撃機戦を想定していたのでしょうか。立川で一号機の開発が進められていましたが、二号機は疎開して高萩飛行場で試作が進められていました。終戦前に一号機は空襲を受け消失、無傷で残った二号機は進駐してきたアメリカ軍に捕獲されアメリカ本国へと移送されました。
終戦後、両飛行場は占領軍から戦略的な価値はないと判断され早々と返還され農地へと変化を遂げました。
今では大型スーパーやショッピングモールなどになっており、その戦跡は年々消滅していく一方です。
当時の写真を見るとモンゴルのような大草原ばりののどかな景色でした。その中で激しい戦闘が行われていたとは・・。そう思うと何かその跡が思い起こせるものがあればと個人的には思ってしまいますね。